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英語も話せない私が留学

クラシックしか知らなかった私がJAZZを歌う

 

長谷川恵美 (はせがわ えみ)奈良県出身

 

 

3歳からピアノを学び5歳には作曲に興味を持ち始めた子供

なんでも、自分流に作り変えてしまう不思議な子だったと人は言います

「あいうえお」を書くより「音符」を書くほうが早く、当時ピアノがなかった頃はカレンダーの裏に鍵盤を書いていつまでも弾いていたみたいです

 

13歳からオリジナルバンドを本格的に活動させ、ヤマハポプコンやティーンズといったオーディションやイベントで数々の賞を受賞

特に16歳の頃のベストボーカリスト賞をいただいた時は「ひょっとしてアイドルになれるかも・・」なんて勘違いして時期もあり。笑

バンド活動を続けながらクラシックの練習を毎日毎日・・・

毎日が楽譜との戦いでした。同じ曲を何ヶ月も弾く。

 

 

16歳でエレクトーンとであう。これがこの先の私の運命を変えたといっても過言でではないと思います

近所の会館でエレクトーン新機種発表のためデモ演奏をするということで、興味本意で覗きにいきました。

そこには、加曾利さんと平沼さんというエレクトーン界ではVIPな方たちが「独眼流正宗のテーマ」を・・・

「え?え?エレクトーンって凄い・・」「これ、私やりたい!」「いや、やらなきゃ。これで有名になりたい!」

うちは決して裕福ではなかったけど、母親は「貴方がやるのなら何でも協力するから」って

そのエレクトーンを買ってくれました。

その日から2年間、ヤマハ音楽院に入学するまで練習練習・・・

 

18歳ヤマハ音楽院(エレクトーン科)入学。ギリギリ合格。

レベルによるクラス別けでは勿論、一番下のクラス。その中でも後ろのほう

またここからの卒業までの二年間。寝る時間4時間、始発で学校へ行き終電で帰宅。

練習練習・・・・とにかく私はエレクトーンに触り、会話をし、エレクトーンと仲良くなり、問いかけてみたり。←今考えると怖い

次のクラス替えでは一気にトップクラスへと昇った

ピアノとはまた違った楽しみとワクワク感がたまらなかった。

師匠からは、「音色つくりはピカイチだね」って。演奏では勿論ですがなかなか褒めてくれない「よっしゃ!」と言ってくれない方から褒められた最初の言葉。

今も響きます。

 

18歳、音楽専門学校を主席で卒業(エレクトーン科)

(この主席は本当にうれしかったです。色んなエレクトーン雑誌に私の演奏やアレンジの譜面を取り上げてくださいました)

 

在籍中の取得資格(エレクトーングレード3、ピアノグレード5級、指導グレード3級、)

それから、ヤマハ音楽教室講師を5年。

留学のために退職

 

1999年 ボストン音楽院 作曲科入学(日本人初)

 

ここでの刺激は半端なかったです。英語!!全くわからない!でもね、世界をみた気がしました

今でも忘れられない母親の名言「ドレミは世界共通語。英語なんか話せなくても演奏で通じるわ。」です。

楽譜と睨めっこばかりの10代前半の音楽と、音を楽しむことの素晴らしさを知った後判

ボストンへ来てからは楽しみたいけどなかなか楽しめない日々・・・・

結構な孤独な時間が長かったです。理由はひとつ。話せないから・・・これだけ。

 

ここれで私が実行したことは、

「日本人の友達から離れる」「ラジオを聴きまくる(当然意味はわからない)」「ルームメイトはアメリカ人」「英語で日記をかく」

2ヵ月後。。はい!ラジオの会話がゆっくりに聞えてきました。ここから早かったですよ~

半年後には電話の受け応えが出来るようになり、自分の部屋に電話も引けるようになりました

 

 

そこで、入学1年目にして「ボストンコンポーザー GP」に参加する

「ASKA」という楽曲をピアノとバイオリンの構成で、大袈裟に言うと日本の歴史を音にしました

日本を離れると日本が見えるって本当ですね

私はこのコンペティションで人生は初の、スタンディングオベーションを頂き、ステージの素晴らしさ、ライブの緊張感を味わってしまいました

結果はpianoソロで3位、映画挿入曲としてグランプリを。

誇らしい賞を頂きそれは今も私の勲章です。そして自信にもなり更なるステップへ導いたのです。

 

私の曲は通用するんだ!お母さんの名言がまた心に響く・・・

後にこの曲はヨーロッパの舞台で活躍するバレリーナーに贈られる事になりました

 

ゴホンっ!これから留学しようとしている方へ一言

英語は現地で学べ!です。

「生きた英語を話そう」です。いいですか、生きた英語です。

日本ではなかなか勉強できないこともわかってます。

でも飛んでしまえば話せるようになるんです。

そして、そして、なんと

現地サンフランシスコで音楽教室を開業。

生徒さんが70名にもなり、英語も生徒さんから教わり(笑

がっつり働き、満喫し10数年のアメリカ生活にピリオドを。

 

帰国後は

ジャズシンガーとしても、ピアニストとしても関西だけではなく幅広く活動させていただいております。

 

書ききれませんが・・・汗

これからの活動などもこちらに書いていきますね

 

 

なぜジャズ歌手に。。。また書きます

 

 

 

 

 

 

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